国鉄 停車場 配線略図 掲示板 155193


立川駅 配線略図 昭和28年3月現在 を追加

1:KASA :

2024/04/05 (Fri) 06:12:56

HPに、

立川駅 配線略図 昭和28年3月現在

を追加しました。
2:クモイ103 :

2024/04/07 (Sun) 11:23:36

中央本線の「下中」が単純な形で終わっていて、昭和37年以降の渡り線が絡む複雑な形になっていませんね。
旅客ホームが延長されていますので、4イ・4ロ・5の分岐器が下り方へ移動して中線の有効長が確保できなくなり、仕方なく渡り線を突っ切ったということでしょうか。
3:KASA :

2024/04/08 (Mon) 00:04:53

クモイ103さん、コメントありがとうございます。

その通りかと思われます。渡り線との交差を避けて、中線を渡り線よりもさらに下り方へ移動しても、やはり中線の有効長を十分に確保できなかったのではないでしょうか。

配線変更の時期は、モハ90形電車・10両編成の投入に合わせてと考えるのが妥当でしょうか。

JTB Can Booksから出版されている

「中央線 オレンジ色の電車今昔50年 後部鉄道の開業から120年のあゆみ」(三好好三・三宅俊彦・塚本雅啓・山口雅人著 2008年4月1日発行)

を参考にしますと、モハ90形電車が10両編成で中央線を走るようになるのは昭和33年1月からで、その後、昭和34年11月改正からデータイムの急行運転(現在の快速運転)も東京~立川間で始まったとのことです。

当時は、基本編成8両プラス付属編成2両の10両編成(付属編成は東京方)で、立川~浅川(現・高尾)間は、その付属編成を使用して、2両または4両で運転されていたとのことですので、下り本線、上り本線、下中線間相互の入換を利用して、分割・併合などが行われていたのではないでしょうか。
4:yyoshikawa :

2024/04/09 (Tue) 18:21:30

1953年配線図時代には中央本線下り線から青梅線連絡線への直接進入は出来ない配線なんですね当時は中央本線から青梅線はの直通乗り入れは考えて無い時代なんですね 此の連絡線は拝島から五日市鉄道の線路であり南武鉄道との直通運転に使われていた 更に奥多摩から石灰石を京浜工業地帯へ輸送する貨物幹線ルートです 1962年のは配線図では連絡線に中央線下りから直通出来る様に亘り線で連絡出来る様になりました青梅特快の先駆けでしょう確か1962年頃青梅鉄道公園が開園した頃でしょう 青梅線関係への貨車の仕分けは立川で執り行っていたとして構内の何処で仕訳組み立てしていたのでしょうか以前より謎なのですが何方か御存知有りませんでしょうか?石灰石輸送と横田基地向け航空燃料輸送は青梅五日市南武経路で直通運行しているので省略するとして青梅五日市線関係の一般貨物は何処で組み立てていたのか立川駅の配線図から判断して立川駅東側上り6番から10番で仕訳組み立てしていたのではないでしょうかあくまで推測ですが・・
5:KASA :

2024/04/09 (Tue) 19:51:57

yyoshikawaさん、コメントありがとうございます。

青梅線への一般貨物の仕立ての件ですが、

「続 鉄道による貨物輸送の変遷 ー操車場配線回顧ー」(太田幸夫著 富士コンテム 2012年9月1日発行)

に掲載されている配線略図を参考にしますと、ご推察の通り、立川駅東側の上り6~10番線で行われていたようです。

ただ、一般貨物も含まれていたか否かははっきりしないのですが、五日市線向けの貨物は、南武線側の側線で行われていたように見られます。

また、上記書物に掲載されている拝島駅の配線略図には、拝島駅の立川・八王子方の側線(現在は電留線になっている?)にも青梅線関連の貨車収容線と留置線の用途記載があり、そこで八高線経由の貨車も仕訳されていた可能性もあるのではないでしょうか。
6:yyoshikawa :

2024/04/17 (Wed) 17:24:20

中央本線東側駅配線は東海道本線東側配線と共通していると思います旅客ホームは島式で本線外側に上下別に貨物列車副本線と貨物用側線が引かれている配線である 日本の通常の駅は中線の有る相対ホームと島式ホームを組み合わせ上下両用の中線を設ける相対ホームに駅舎を設ける運行本数の多い駅では島式ホームへは跨線橋もしくは地下道で連絡している 運行本数の少ない駅では構内踏切で連絡していた 相対ホーム端部には貨物用ホームを併設島式ホーム外側に側線を設けているのが標準であった 然し中央本線東では複々線化前の中野高円寺阿佐ヶ谷吉祥寺は島式ホーム外側に貨物用副本線を設ける方式である国分寺も同様な配線である沿線で例外は武蔵境相対ホームに上下線間に貨物退避の中線を設けていた 国立は相対ホームと島式ホーム中線有りのオーソドックスな配線駅であった 立川八王子も基本島式ホームの外側に貨物用副本線を設けている 同じ配線で赤羽線板橋駅 東海道本線大森蒲田川崎鎌倉早川真鶴湯河原清水磐田天竜川木曽川等が同様な島式ホームに外側貨物副本線を設けている関ケ原から西は普通のオーソドックスな島相対中線の配線である 何で二通りの配線が出現したのは謎である
7:KASA :

2024/04/20 (Sat) 14:53:29

yyoshikawaさん、ご投稿ありがとうございます。

停車場のホーム配置、線路配置というのは、それが設計または改良された当時の停車場毎の事情によるのでしょうけれど、鉄道会社毎、線区毎におおまかな傾向があり、それをみていくことはたいへん興味深いことだと思っております。

停車場の線路配置にも、ある種の「標準」があって、それが線区毎に違ったり、もしかすると、それが設計された時代毎に変化してきているのではないかと推測できるかもしれません。

東海道本線に関しては、たしかにご指摘の通りだと思います。可能ならば、当時、設計に携わった方々のお話を伺ってみたいと思いました。そういった趣旨の座談会などが収録されている古い専門誌か趣味誌があれば読んでみたいと思いました。
8:yyoshikawa :

2024/04/20 (Sat) 18:18:47

我が国鉄道黎明期本州は英国北海道は米国九州は独逸の技術で建設運営されていた当然ながら駅も其々の状況で造られていた本州は英国式に高いホームを当初より採用しており(今のホーム高よりは低い)相対式ホームに跨線橋駅舎は英国風であった 北海道は米国式の駅ホームは無く線路脇に米穀風駅舎が建つだけ乗客が居る時は旗を立てて列車を止める方式であった 九州は概ね英国方式に近いホームも存在しておる 車輛面から見ると北海道では我が国で最初に空気ブレーキや自動連結器の採用機関車は如何にも初期アメリカンなダイヤモンド煙突ベルが有るホームが無い分客車にはステップがあるオープンデッツキ中央廊下式で各車輛にハンドブレーキがある脆弱な軌道の為客車も貨車も全てボギー車であっつた 駅の配線は当時のアメリカの鉄道と同じ様な配線であると推測される 本州は英国式を採用したのでブレーキは真空ブレーキと蒸気ブレーキを採用客車はニ軸単車で京浜間ではあるがアメリカ式に両端オープンデッキ中央廊下式を採用していた 阪神間では客車は英国式にコンパートメント式車体長の短くで中央通路無し京浜間よりホーム高さは低い分ステップの段数が多い以前復元した最古の客車は阪神間用ンも客車で有り現在大宮鉄道博物館復元展示の説明板には今は其の旨記載されている桜木町に展示されてる復元客車は両端デッキ式中央廊下式の車体長Gは長い客車を復元展示した 当初本州の鉄道が英国式を採用し駅の配線も英国風に相対ホームに片側に駅舎貨物扱い設備等を設ける其の後に官設鉄道東海道本線が全線開通日本鉄道山陽鉄道等と連絡する様になり輸送量が増えると複線化が始まり相対ホーム非駅舎側外に側線を増設する様になり一部の駅では相対ホームの一本を島式に変し駅舎側ホームは副本線化する其の為主本線が駅の前後で不思議なカーブが存在する駅がある特に東海道本線東側にはそうゆう駅が多い逆ℬに西側は島式ホームに中線という形状になったのは国有化後の管理局毎の考えの相違があったのではとおもうのですが 空く迄個人の見解としての打てますのであしからず
9:KASA :

2024/04/20 (Sat) 23:43:43

yyoshikawaさん、ご教示ありがとうございます。

書籍、写真、ユーチューブなどでみるだけですが、たしかにイギリスは現在でも郊外の小規模な中間駅で相対式ホームが多い印象を受けますね。

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