戦後すぐの函館駅と五稜郭操車場、興味深く拝見しました。
函館駅の0番線は、私が訪れていた1988年前後の時期は江差線ホームだったと思います。今はなくなっているのですね。
現在摩周丸が保存されているところは「第一航送場」です。
「第二舩入澗」の左側に「高架線」が描かれています。
もしかして貨車から船へ石炭などを積み替えるやつでしょうか?
五稜郭操の図で左上の分岐の先にある有川桟橋は、日本国有鉄道百年史によれば戦時中の昭和18年に開設されています。
当時は民間船舶の軍徴用による船腹不足で北海道産石炭の輸送が鉄道に転嫁し、
青函連絡船も急きょ「戦時標準船」を大量増備すると共に桟橋を増設するなど輸送力の強化に追われていました。
五稜郭操の配線を見ると、夕張や幌内などからやって来た石炭列車が有川へスルーできるように見えますね。
おそらくここを長蛇のセキの列がD52に牽引されて次々に通り過ぎ、連絡船に積み込まれて津軽海峡を越えて行ったのでしょう。
戦争の落とし子ともいえる有川桟橋ですが、戦後の復興と経済発展に伴う青函航路の輸送量増大で、
函館駅の2岸壁だけではとうてい賄えない船便の着発をこなす第3、第4の岸壁として物流の大動脈を担い、
昭和40年代?には、夏季の旅客輸送ピーク時に、ここへ着く津軽丸形貨客船による貨物便を臨時に客扱いし、
降りたお客をバスを仕立てて函館駅まで運んだという話もどこかで読んだ気がします。(乗りたかったなあ…)
- クモイ103
- 2023/03/26 (Sun) 08:01:32