「ヤード西から東から」より沼津駅平面略図(昭和24年頃)
HPに、

(閑話休題020)「ヤード西から東から」より沼津駅平面略図(昭和24年頃)

を追加しました。

「ヤード西から東から」(または、「ヤードマン西から東から」)という連載記事が掲載されていた国鉄部内誌(?)についてご存じの方がいらしたら是非ご教示お願いします!

http://railwaytrackdiagrams.web.fc2.com/others/others20251216.html
  • KASA
  • URL
  • 2025/12/16 (Tue) 16:03:40
Re: 「ヤード西から東から」より沼津駅平面略図(昭和24年頃)
1960年代未だ小学生時代一年に二回東海道本線に乗車する機会が有り下り列車に乗車沼津に到着する直前進行右側から広い構内が広がっているのが不思議で有った 本線である筈の東海道本線に収束されずあらぬ方向へ向かっていたのが子供心に謎であった確かに沼津から御殿場線が分岐してるが本線で無い方に其方方が大きな構内なのが不思議であった 丹那隧道が開通する迄現御殿場線が東海道本線であった歴史からすればそちらの方が広大な構内であった事は後に頷くのです
年月は経ち国鉄末期の頃沼津機関区100年記念かなにかで各地から車輛を集めて展示会が模様されたので父親と二人で見物に行きました 駅ホームから直接機関区へ 機関区の側線によくも集めた車輛達で楳津規されていたが見物客は少なかったじゃだ退け等怒声はきかれなかった 南は関門トンネル用EF30 瀬野八本松後部補機EF59 偶数向きのクモヤ900xx電気機器側の床下機器が逆に取りつけられていた ワサ1三軸単車 機関区内にはジャッキアップされたEF65台車検査状況展示
マイネ40改の工事用宿泊車 クレーン車等展示しており楽しかった略見物を終えて昼になったので沼津駅前保障店街で偶然入った鰻屋で特上鰻重を頼むと出て来た鰻重真ん中にも鰻が挟まっていたのが新鮮でであった
  • yyoshikawa
  • 2025/12/16 (Tue) 20:04:19
Re: 「ヤード西から東から」より沼津駅平面略図(昭和24年頃)
yyoshikawaさん、ご投稿ありがとうございます。

昭和61年夏の沼津機関区100周年のイベントは、私は訪れる機会がありませんでしたが、車両展示会や記念臨時列車が運行されたりとたいへん盛り上がったようですね。

真ん中にも鰻が挟まった特上鰻重、私も食してみたかったです。
  • KASA
  • URL
  • 2025/12/16 (Tue) 21:53:15
福井操車場配線図と龍華(竜華)操車場構内略図
引き続き、HPに、

(閑話休題021)「ヤード西から東から」より福井操車場配線図と龍華(竜華)操車場構内略図

を追加しました。

http://railwaytrackdiagrams.web.fc2.com/others/others20251217.html
  • KASA
  • URL
  • 2025/12/17 (Wed) 03:18:03
Re: 「ヤード西から東から」より沼津駅平面略図(昭和24年頃)
ネガカラープリント写真アルバムでの撮影の沼津機関区100周年記念車輛展示会展示車輛 DD161 クモヤ90052元モハ72058 ワサ2 ED7537 EF3017 クハ118-5ユニット EF538 クモヤ22xxx現リニア博物館保存 DE15ラッセルユニット両端ラッセル 番号不明牽引車カルダン車 ソ85+チキ EF58170 EF623 EF6095 DD131 EF653 EF15184 EF6068 ED1610 オヤ412旧マロネ40 オロネ10改職用車番号不明二輌 ネガは父親が撮影他に私ℬが撮影したリバーサルカラーの写真も有りますが未整理です以上
  • yyoshikawa
  • 2025/12/17 (Wed) 21:13:21
Re: 「ヤード西から東から」より沼津駅平面略図(昭和24年頃)
yyoshikawaさん、ご投稿ありがとうございます。

これだけの車輛が集結したのは、まさに国鉄時代ならではですね。撮影された写真は貴重な記録だと思います。

  • KASA
  • URL
  • 2025/12/18 (Thu) 01:09:32
高松駅配線略図(高松桟橋駅があった頃)と青森駅構内略図
引き続き、HPに、

閑話休題022 「ヤード西から東から」より高松駅配線略図(高松桟橋駅があった頃)と青森駅構内略図

を追加しました。「ヤード西から東から」シリーズ(汗)は、これにて終了です。

http://railwaytrackdiagrams.web.fc2.com/others/others20251218.html
  • KASA
  • URL
  • 2025/12/18 (Thu) 01:26:06
Re: 「ヤード西から東から」より沼津駅平面略図(昭和24年頃)
高松と青森、いずれも興味津々の駅の線路図を見せて頂きありがとうございます。

高松桟橋のあった時代、その後高松駅に統合された時代、そして連絡船が廃止されて高松駅全体がリニューアルされた現在、この3つの時代のホーム等の位置関係がいまいちよく分かりません。
地図を重ねて見ることが出来れば分かるのでしょうけど、なかなか…

青森については、第三岸壁へ貨車が出入りするルートが旅客ホームの西側を通っているので、こちらもかなり古いですね。
後の時代は第一岸壁、第二岸壁と同じく旅客ホームの東側を通って行くようになりました。
  • クモイ103
  • 2025/12/18 (Thu) 21:23:35
2代目高松駅と高松桟橋駅の空中写真
クモイ103さん、ご投稿ありがとうございます。

国土地理院の空中写真(航空写真)、グーグルマップ、四国鉄道OB会のサイト( http://srwob.stars.ne.jp )にある高松駅の歴史をまとめたPDFファイル ( http://srwob.stars.ne.jp/info/takamatsu_st.pdf 注意:ファイルサイズが27MBほどあります)などを参考にしますと・・・

アップしました画像(昭和28年の空中写真)の緑線(香川県道173号線)と黄色線(国道39号線)をてがかりとしてまして、、

高松桟橋駅廃止・統合後の3代目高松駅(画像は次の投稿)は、旅客ホームが2代目高松駅ホーム(画像の赤い長方形)と高松桟橋駅ホーム(画像の青い長方形)の中間あたりで、本屋(高松民衆駅?)は、高松桟橋駅のホームのあたりにあり、

そして、連絡船廃止後かつリニューアルした4代目高松駅(現在の高松駅、画像は次の次の投稿)は、旅客ホームとその終端側にある本屋は、2代目高松駅(画像の赤い長方形)のホームのあったあたりにある

ということになるのではと推定しました。

さらに、蛇足ながら、3代目高松駅の本屋(高松民衆駅?)のあったところは、現在のJRホテルクレメント高松があるあたりではないかと推測しました。
  • KASA
  • URL
  • 2025/12/20 (Sat) 00:04:44
3代目高松駅の空中写真
アップしました写真は、昭和37年の空中写真で、高松桟橋駅統合後の3代目高松駅の上空です。

赤い長方形で囲んだ部分が旅客ホーム、オレンジ色の長方形で囲んだ部分が本屋になるのではと思われます。

  • KASA
  • URL
  • 2025/12/20 (Sat) 00:11:27
4代目高松駅の空中写真
2007年に撮影された4代目高松駅の空中写真です。

ホームと本屋は、赤い長方形で囲んだ部分になると思います。
  • KASA
  • URL
  • 2025/12/20 (Sat) 00:19:59
Re: 高松駅の空中写真
KASAさん、たいへんお手間をかけて頂き、ありがとうございます。
道路を基準に示して頂いたので、とても分かり易い比較です。高松駅の変遷に理解が深まりました。
3代目高松駅舎は元の高松桟橋駅の位置だったのですね。付近の地元の人は、駅が移転してずいぶん歩かされることになったのではないでしょうか。
4代目になって少し戻ってきたことになりますね。

お礼というほどにもなりませんが、1988(S.63)年6月26日、瀬戸大橋開通から2ヶ月後の高松桟橋を海側から見たところです。
3隻並んだ連絡船は、左から讃岐丸、伊予丸、阿波丸です。前二者は可動橋のある第一岸壁、第二岸壁に着いており、阿波丸は可動橋のない場所にいます。
讃岐丸の左側には高速艇「しおかぜ」が着桟しています。この乗り場は駅の改札外で、宇野側の高速艇乗り場が改札内にあったのと対照的でした。
画面の右端には、おそらく補助汽船「たまも丸」と思われる小船が見えます。
4隻あった連絡船のうち残る土佐丸は宇野桟橋に係留されていました。

讃岐丸は観光船に改造され、瀬戸大橋周辺を巡る観光クルーズに活躍していました。
のちに讃岐丸の乗り場は駅から東へ少し離れた場所へ移されましたが、当初は連絡船時代の岸壁がそのまま使用されていました。
  • クモイ103
  • 2025/12/20 (Sat) 08:10:36
Re: 「ヤード西から東から」より沼津駅平面略図(昭和24年頃)
四国鉄道の大ターミナルである高松駅の旅客駅部が四回も移転していたのは驚愕です 馬立地の駅であるからヤード部分の線路を整理すれば一般の土地を買収せずとも自由に旅客駅を移転出来たのでしょう 昔は敷地面で余裕があった時代用地内での駅移転は今より畑谷氏買ったのではと思うの渡しだけでしょうか
青函連絡船は一度も乗船した事が有りませんでした(残念な事です)北海道は遥かなたで有りましたが宇高連絡は一往復乗船する機会が有りました特急瀬戸豪で宇野迄向かいました初めて24系ブルートレインに乗車早朝宇野に到着宇高連絡船に初めて乗船船内の饂飩店で讃岐饂飩の朝食を食べた朝の瀬戸内海は穏やかな風景が見られた行は気が付かないのでしたが東京へ戻る時グリーン船室に乗船したグリーン船室は船の船首側に有ったので航送貨車は船首がわから搬入する事に気付きました青函航路と宇高航路での貨車の搬入が違うのが初めてわかったのです
  • yyoshikawa
  • 2025/12/20 (Sat) 17:40:50
貴重な写真をありがとうございます。
クモイ103さん、返信と貴重な写真をありがとうございます。

3隻の連絡船が並んだ様子を海側からとらえた貴重な写真を拝見できました。当時の街並みもみてとれると思います。ご投稿に深く感謝申し上げます。

讃岐丸は、1996年まで観光船として活躍したのですね。


青森について触れていませんでした。第三岸壁へのルートのこと、気がついていませんでした(汗)。ご教示ありがとうございました。
  • KASA
  • URL
  • 2025/12/21 (Sun) 02:56:28
航送貨車を船首側から搬入することになった理由
yyoshikawaさん、ご投稿ありがとうございます。

移転時の線路整理や旅客ホームの移行について興味がわいてきました。

航送貨車の連絡船への搬入についてご教示ありがとうございます。意識しておりませんでした。あらためて、ウィキペディアの「讃岐丸(宇高連絡船・初代)」のぺージをみてみますと、その「概要」の項目に、車両の積み下ろしを船首側とした理由が、

「航路長が短く、狭隘な海面での離着岸を頻繁に繰り返す宇高航路では、離着岸に要する時間の短縮が重要で、1953年(昭和28年)建造の第三宇高丸同様、可動橋への接合がより容易な船首着岸とし、車両の積卸しは船首からとした。」

と記述されておりました。

ご投稿を拝読して、讃岐うどんを食べたくなってきました。ありがとうございます。
  • KASA
  • URL
  • 2025/12/21 (Sun) 03:37:41
Re: 「ヤード西から東から」より沼津駅平面略図(昭和24年頃)
確かに内陸航路である宇高連絡船と外洋航路の青函連絡船では比較的波穏やかな宇高連絡船では船首から航送貨車を積み込んでも波による影響は少ない 逆に外洋航路である青函連絡船は津軽海峡の荒波を受けるので航送貨車を船尾より積み込む方式で対処したのでしょう 日本の連絡船は基本水密構造ではないイタリアのシチリア航路やアメリカのアラスカ航路ロシアの樺太航路などでは外洋航路の為車輛甲板は航送車輛を積載した後シャッターで航送口を完全にふさぐ構造にして嵐の折の海水進入を防いでいる 比べ我が国の鉄道連絡船では車輛甲板は基本オープンであるので嵐のおりは海水に対する備えが甘い事実洞爺丸台風では多数の青函航路の連絡船が沈没する事故が発生したにもかかわらず其の後の新造船でもオープン状態であった が瀬戸大橋と長大青函トンネルという選択肢にシフトした天候の影響を受けず列車の運行出来るメりットは多きのではなかったろうと思います 青函トンネルが開通して一番列車がトンネルを通過た時感動の涙がでたものです
  • yyoshikawa
  • 2025/12/21 (Sun) 21:24:08
Re: 「ヤード西から東から」より沼津駅平面略図(昭和24年頃)
yyoshikawaさん
>洞爺丸台風では多数の青函航路の連絡船が沈没する事故が発生したにもかかわらず其の後の新造船でもオープン状態であった

青函航路の旅客船については、洞爺丸台風後、既存の船も新造船も車両積込口に防水扉が設けられました。
旅客輸送を行わない純車両渡船では、当初、車両甲板が万一浸水した場合でも急速に排水出来るよう船体の横に排水口を設けるなどの対策がとられましたが、
昭和44年に就航した2代目渡島丸からは、旅客船と同様の防水扉が設けられるようになりました。
(参考資料:古川達郎「鉄道連絡船100年の航跡」成山堂書店)

「オープン状態であった」というのは、宇高連絡船のことを言われているのではないでしょうか?
  • クモイ103
  • 2025/12/21 (Sun) 22:12:24
Re: 「ヤード西から東から」より沼津駅平面略図(昭和24年頃)
クモイ103 御指摘有難う御座います後年既存船及び新造船では防水扉の事は当方の認識不足でした 
  • yyoshikawa
  • 2025/12/23 (Tue) 19:52:51
余談ですが…
図に乗って蛇足ですが…
青函連絡船の車両積込口の扉が閉じる所の写真を撮っていました。
1987年5月4日、青森桟橋を5:25に出航した21便大雪丸の後ろ姿です。
左は上下二段に折りたたまれていた扉が降りてくる途中で、
右は降りきって扉が閉まった状態です。

(この写真はJRになってからですが)国鉄の連絡船は明治の揺籃期から常にその時代における最新の技術が導入され、
洞爺丸台風、そして翌年に宇高航路で発生した紫雲丸事故の教訓もいち早く反映して種々の安全対策が盛り込まれました。
各層のあらゆる関係者の努力で、その後は運航体制の根本にかかわるような事態を起こすことなく、使命を果たし切ったのでした。
  • クモイ103
  • 2025/12/24 (Wed) 09:27:17
貴重な写真をありがとうございます。
>yyoshikawaさん、クモイ103さん、

鉄道連絡船についてのご投稿とご教示ありがとうございます。勉強になりました。


>クモイ103さん、

貴重な写真をありがとうございます。

鉄等連絡船について、私は勉強不足でお恥ずかしいです。
  • KASA
  • URL
  • 2025/12/28 (Sun) 03:34:48

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